産油国は、石油を“武器”に使った(写真:AP/アフロ)
産油国は、石油を“武器”に使った(写真:AP/アフロ)

2023年は、1973年10月に第1次石油危機が起きてから節目の50年の年だ。日本経済が当時、パニックに陥った原因の1つに、「湾岸諸国が日本をどう見ているか」の情報が取れなかったことがある。「友好国」と見なされなければ従来通りの量の石油を確保できない。中東専門家の絶対的不足と、数少ない専門家を生かし切れなかったことが敗因だった。中東諸国の重要性は日本が今後カーボンニュートラル(温暖化ガス排出量実質ゼロ)を達成しても変わらない。今後も中東専門家の育成に注力する必要がある。

 2023年は、1973年の第1次石油危機からちょうど50年という節目の年である(ちなみにいうと、1993年のオスロ合意から30年、2003年のイラク戦争から20年でもある)。石油危機は、1973年10月6日から始まった第4次中東戦争*1と、それに続く中東産油国によるいわゆる「石油武器戦略」をきっかけに起こった。

*1:アラブ諸国とイスラエルが戦った。エジプトとシリアがイスラエルに先制攻撃を仕掛けたことから始まった

 開戦後しばらくして湾岸産油国は石油の公示価格を70%値上げした(最終的には約4倍)。さらにアラブ産油国(アラブ石油輸出国機構=OAPEC)が、(1)親イスラエル国には石油を売らない(2)中立国には、政策をアラブ寄りに変えない限り、輸出を削減する(3)友好国には従来通りの量を売る(ただし、価格は値上げ)としたため、中東の安い石油に依存していた国々の経済が一気にパニックに陥ったのである。日本も例外ではなかった。

 実は第4次中東戦争が勃発する前から、石油危機への懸念が議論されていた。石油をめぐる情勢が大きく変化し、それまで石油を支配していた欧米の石油メジャーズに代わって、産油国、特に中東の産油国の力が強くなっていたのである。そのため、「産油国がヘソを曲げるなどの事態が起これば、石油危機が発生する可能性がある」との議論がまことしやかに行われていた。

 中でも、英・オランダ(当時)の石油会社シェルは、石油危機が起こるのを前提に、シナリオプランニングという手法を使って事前に対応策を検討していた。そのため、同社は石油危機の影響を抑えることができた。業界ではよく知られている話だ。また、米国務省のジェームズ・エイキンズ燃料エネルギー部長(当時)が、『フォーリン・アフェアーズ』(1973年4月号)に寄稿した論文「石油危機:狼は今度こそそこにいる」において、アラブ産油国が石油武器戦略を取る可能性を指摘していた。

 これらの警告を、当時の日本のエネルギー専門家や中東専門家たちがどう受け取っていたかは興味深いところだ。危機発生後の周章狼狽(しゅうしょうろうばい)ぶりをみるに、産官学のいずれにおいても、彼らが危機を認識しトップと共有していたとは考えづらい。

湾岸諸国の考えをつかめず

 日本にとって第1次石油危機がややこしくなったのは、アラブ諸国が日本をどう見ているのか、日本側がきちんとつかめていなかったからだ。日本は敵対国なのか、中立国なのか、友好国なのか――。

 その大きな要因の1つは、湾岸諸国に関する情報を収集し分析する能力が当時の日本に欠如していたことにある。例えば、当時、日本が大使館を置いていたアラブ湾岸産油国はイラク、サウジアラビア、クウェートの3つだけだった。さらにこの3大使館の大使は全員、中東の専門家でなかった。石油の専門家でもなく、石川良孝駐クウェート大使を除けば、エネルギーをきちんとフォローした経験もなかった。

 残りのバハレーン(以下、バーレーン)、カタル(以下、カタール)、アラブ首長国連邦(UAE)、オマーンの4カ国には大使館が存在せず、クウェート大使館が兼轄していた。しかも、クウェート大使館の館員数は大使を含めわずか5人。この5人で5カ国を見なければいけなかった。

 また、外務省本省で中東地域をつかさどる中近東局の局長、参事官、課長のいずれも中東の専門家ではなかった。もちろん、中東専門家だからといって、情報収集にたけ、正しい分析ができるわけではない。だが、やはり、言葉や土地勘、人的ネットワークなど専門家でなければ難しい要素があるだろう。

 専門家がいないのであればしかたないが、専門家が存在しないわけではなかった。外務省内には当時すでに、アラビストと呼ばれるアラビア語を使う職員が30人ほど存在した。彼らを生かすことができなかったのは、適材適所の配置が必ずしもできなかったのかもしれないし、外務省自体が中東の重要性をきちんと把握していなかったということかもしれない。

 実はこれは外務省だけの問題ではない。メディアも同様であった。当時はまだ、中東を専門に見るジャーナリストが少なく、現地語での取材能力を持つ記者はまれであった。記事は、ロイターやAPなどの外電を日本語に換骨奪胎したものが主流だった。

 石油会社も状況は変わらなかった。アラビア石油など石油ビジネスの上流部門に携わる一部企業を別にすれば、アラビア語を話す人材を抱える石油会社は極めて少数であった。なぜなら、彼らのカウンターパートは基本的に欧米の石油メジャーズだったからだ。アラビア石油は例外的に、林昂氏、冨塚俊夫氏、上野悌嗣氏、武藤英臣氏、徳増公明氏ら、研究者に勝るとも劣らない優れた専門家を輩出していた。彼らの中には、日本におけるムスリム社会で指導的な役割を果たした者もいる。

外務省アラビストの知られざる活躍

 ただし、こうした中でも外務省のアラビストたちは、様々な活躍をした。最終的に日本が「友好国」に分類されるきっかけをつくった三木武夫副総理(当時)による中東歴訪*2において、塩尻宏氏と片倉邦雄氏は各国指導者との会談で通訳を務めた。塩尻氏は、後の駐リビア大使。片倉氏は外務省の上級職アラビスト第1号で、この後、駐UAE、駐イラク、駐エジプトの大使を務めている。両氏は当時の回想をいくつか残している。

*2:日本政府は、アラブ産油国がなかなか日本を友好国にしてくれなかったため、三木武夫副総理をUAE、サウジアラビア、エジプト、クウェート、カタール、シリア、イラン、イラクに派遣し、経済・技術支援などを約束しながら、アラブ諸国の首脳を直接説得した。歴訪最中の12月25日、OAPECは日本を友好国とすると発表した

 また、日本政府公式の三木ミッションの前には、直前まで駐サウジアラビア大使を務めていた田村秀治氏(戦前からのアラビスト)が密使としてサウジアラビアに派遣された。同時期に、森本圭市中東通産社長(当時、元外務省アラビスト)も別ルートでサウジアラビアに赴いている。彼らがそのアラビア語の能力やネットワークを生かして得た情報が、有名な二階堂官房長官談話(11月22日)につながっている。

 この談話は、日本の中東政策を明確にアラブ寄りにシフトさせた。イスラエルとの関係を再検討するという、国交断絶まで示唆するような踏み込んだ文言が含まれていた。これによって日本は、石油輸出の追加削減は免除されたものの、残念ながら、それでも、日本は友好国にしてもらえなかった。友好国になるには、上記の三木ミッションを待たねばならなかった。

 今日、外務省のアラビストの数は150人を超えており、アラブ諸国に置かれる日本大使館の多くではアラビストが大使を務めるようになった。ただ、中東における日本のプレゼンスの低下を反映したのか、大使館に配置される専門家の数はまだ十分とは言い難い。また、アラビア石油なき今、民間企業における中東専門家の数も縮小しているとの印象がある。湾岸地域に関心を持つ若手研究者がかろうじて増えているように見えるのが救いかもしれない。

 第1次石油危機のとき、日本は、輸入する石油の77.5%を中東に依存していた。石油危機で痛い目に遭ったのを教訓に、その後、石油の供給源を多角化するなどして、1987年には中東依存度を67.9%まで下げることができた。しかし、直近の値は95%と、第1次石油危機時どころか、過去最高を記録してしまっている。

 もちろん、加工されない状態で供給される1次エネルギーに占める中東産石油の比率は1973年の6割から3割にまで下落している。しかし、だからと言って中東の重要性が大きく減退するものではない。日本は、たとえ2050年にCO2ネットゼロ(二酸化炭素排出の実質ゼロ)が実現できたとしても、(おそらく)中東の石油を買い続けなければならないだろう。再生可能エネルギーや水素、アンモニア、さらにCO2の回収・再利用・貯留(CCSおよびCCUS)でも中東は非常に高いポテンシャルを有する。脱炭素や脱化石燃料を脱中東と勘違いしてはならないのである。

 そのためにも、専門家の役割、情報収集体制の整備が重要になる。実は、石油危機にもかかわらず、1973年の日本の石油輸入量は減少することなく、むしろ増加していた。トイレットペーパーがなくなるというのもデマであった。パニックを起こさないためにも、正しい情報の収集や分析、そして共有が必要になる。

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