“大阪大空襲” 一晩で大阪が焼け野原 60回近い空襲で約1万5000人が犠牲に 戦争を繰り返さないために語り継ぐ“語り部”の思い【夏休みに振り返る#戦争の記憶】 2023年08月06日
大阪城の天守閣近くにある石垣、ところどころに見える穴は、アメリカ軍の戦闘機が機銃掃射を行った跡だとされています。1945年3月13日、大阪はアメリカ軍の爆撃によって一夜にして焼け野原となりました。「大阪大空襲」です。75年を経ても、なお忘れることのできない記憶を伝え続ける、ある語り部の思いを取材しました。(2020年3月放送)
久保三也子さん。90歳。
75年前、現在のJR大正駅近くにある橋の上から見た光景が、今も目に焼き付いています。
【久保三也子さん(90)】
「着物がね、(川の)こっちからこっちへ、向こうへと流れてたわ。あれ、なんでこんなところに着物が流れてんねやろって思って見てたんよ。そしたら髪の毛がわーって流れるでしょ。あー人間や思て。あとでよく考えたら、女郎さんがね、みんな(川に)飛び込んでたらしいね」
久保さんが見たのは、近くにあった遊郭の女性たちの遺体でした。
【久保さん】
「私、今もこんな話するのしんどいけどね、結局私が生き残ったっていう負い目があるのよ。あんなに人死んでしもたのに、私だけ生き残ったと思ったら、やっぱりその時のことを話さないといかんなと」
1945年3月13日、午後11時57分。274機ものアメリカ軍の爆撃機「B29」が大阪の街に押し寄せ、一晩のうちに大阪市内は焼け野原となりました。その後、終戦まで続いた空襲は60回近くあり、約1万5000人が犠牲になりました。
戦時中に陸軍が監修した、焼夷弾の火の消し方を指導するポスターがあります。当時の市民は、空襲から避難することを法律で禁じられ、消火が義務付けられていました。これが多くの犠牲者が出た要因の1つだと考えられています。
【久保さん】
「私ら知らんかったもん。焼夷弾落ちたらバケツリレーで消せって訓練されて。バケツリレーするどころの話やなかったもん」
空襲の傷跡は、今も大阪のところどころにひっそりと残っています。
・大阪城の機銃掃射跡:日本軍の司令部があった大阪城の石垣には、空襲による銃弾の跡が残っています。
・大阪砲兵工廠旧化学分析場:大阪城の東側にはアジアでも有数の軍需工場がありましたが、空襲で壊滅しました。
・大阪府立北野高校の機銃掃射跡:空襲以外にも、戦闘機による低空からの機銃掃射を受けた跡が残っています。
当時、大阪市福島区に住んでいた久保さんは、深夜の空襲が終わった朝、学徒動員されていた大正区の工場に向かいました。その途中、西区の大阪市交通局(現・大阪メトロ本社)の近くで見た光景を、久保さんは絵に残しています。
【久保さん】
「(当時の大阪市)交通局の庁舎まで行ったのは、水があると思ってね。大きな防火用水。せっかく来たのに、防火用水の水は何にも(残っていない)。そこに黒焦げの人がいっぱい倒れてはってね。水槽の外に(遺体が)5、6人あったね。1人はお母さんやと思う。この人、子供さんを…小さい骨を抱えてはったから」
【久保さん】
「防空壕の中で死んではるの見たらね、始め(見えたの)は黒焦げの人やったけど、2つ目のとこ(防空壕)かな、黒焦げの人が、がさっと崩れたのよ。下の人がまだ黒焦げになるほど焼けてなくて、内臓が、がっと見えたの。あんな気味の悪い死に方したくない、真っ黒焦げになって死にたいって。そんなことを思ったの、あの時は。そう思ったつくづく」
無残に死んでいった人たちの無念を伝えたい。久保さんは、大空襲を語り継ぐ活動を41歳の時から続けてきました。しかし2019年の夏、重い貧血で入院。代表を務める「大阪大空襲の体験を語る会」を2020年3月末で解散することにしました。
【久保さん】
「(語り部で)今、生きてる人少ないからね。もう1年(活動を)やったら50年って言われてるけど、もう1年もてへんからあかんねん」
語る会の解散を決めても、あの時代は伝え続けます。2月半ば、毎年のように大空襲の講演会をしてきた大阪狭山市の中学校の先生たちが、自宅にやって来ました。あまり語られない、当時の市民の生活をつぶさに伝えます。
【久保さん】
「各戸に1つ防空壕を掘りなさいっていうことで、回って来るんですよね、回覧板がね。大阪ね、狭いでしょ。だから、土間に掘ってするとか、玄関の畳を上げて、そこへ掘れって」
当時国は、国民をすぐ消火に当たらせるために、自宅の真下に防空壕を掘るよう指導していました。その中の状況を語り伝えます。
【久保さん】
「ここ(踏み台)へ足かけて、ポンって(防空壕に)飛び込んどったの」
【狭山中学校の先生】
「これ(に足を)かけてっていうぐらいやから、(防空壕は)本当に小さいんですね?」
【久保さん】
「そんな立たれへんよ」
【狭山中学校の先生】
「ほんまにみんなが、ぎゅうぎゅうで入るぐらいの大きさしかなかったってことですね」
【久保さん】
「家族ね、うちは4人やったけど」
【大阪狭山市立狭山中学校 橋本大河先生】
「こうやって話を聞かせてもらったことを、次は僕らが伝えていく番ですし、その話を聞いた子供たちが次、どういうふうに伝えていくのかっていうのが、一番大事だと思う」
久保さんは、これまで講演を聞いてくれた子供たちが、今度は伝える番となって大空襲を語り継いでくれることを願っています。
【久保さん】
「中学生ぐらいになったら、ちゃんと(感想文を)書いているよ。『これからは自分たちがこれを伝えていかないかん』って書いてあった。家族だけでなく。そんなん割と多いのよ。私なんとなくそれで、ちょっと安心したとこある」
同じ歴史を2度と繰り返さないために語り継ぐ必要がある。その思いを込めて、あの日の記憶を伝え続けます。
(関西テレビ「報道ランナー」2020年3月13日放送より)