福島第一原発 処理水 決断の舞台裏

「夏ごろとはいったい、いつか」国内外の関心が集まった、福島第一原発にたまる処理水の海洋放出の開始時期。早ければ8月24日に決まった。そして24日午後1時ごろ、海への放出が始まった。IAEA=国際原子力機関が放出計画を「国際的な安全基準に合致している」と結論づけてから1か月半がたっての総理大臣・岸田文雄の決断だった。風評被害への懸念、想定を超えた中国との“外交戦”。決断の背景には何があったのか。舞台裏に迫る。
(森裕紀、清水大志、古垣弘人)※24日内容を更新しました。

海洋放出の開始表明


「具体的な放出時期については、気象・海象条件に支障がなければ、8月24日を見込む」

8月22日、岸田が表明した。
その上で、風評への影響や、なりわいの継続に対する不安に対処すべく、たとえ今後数十年の長期にわたろうとも処分が完了するまで政府として責任を持って取り組んでいくと重ねて強調した。

決断に対し「たまり続ける処理水を処分するにはやむをえない」と容認する声が上がる一方、地元の漁業関係者は「魚が売れなくなるのではないか、不安だ」と話し、風評被害への懸念はなお残る。

たまり続ける処理水

東京電力福島第一原子力発電所の処理水。
原因は12年前の2011年の東日本大震災に伴い起きた原発事故。
溶け落ちた核燃料の冷却などで放射性物質を含む水が生じることになった。
当然ながらそのまま海に流すわけにはいかない。どうするのか。

専用の設備で放射性物質の大半を除去。敷地内の1000基余りのタンクで保管しつつ、長く専門家による検討が続けられた。
そして事故から10年近くたった2020年2月。
ためていた処理水を、残る放射性物質の濃度が国の基準を下回るまで薄めて海に放出することが現実的だとする報告書がまとめられた。

翌2021年4月。政府は専門家の報告書を踏まえる形で、2年後の2023年、つまりことしをめどに処理水の海への放出を始める方針を決定し、準備に着手した。
ことし1月には、放出開始は春から夏ごろまでとすることが確認され、今に至る。
事故から12年。たまり続けてきた処理水。
政府関係者はこう語る。

「来年2月以降、満杯になる恐れがある」(政府関係者)

まさに、この夏は限界ぎりぎりのタイミングになっていたと言える。

「お墨付きだ」

岸田の決断からさかのぼること1か月半。
7月4日。IAEA事務局長のグロッシが来日し、官邸で岸田と向き合っていた。
「決断を下すのに必要な要素が全て含まれている」
グロッシはこう語りかけて、岸田にIAEAの報告書を手渡した。
福島第一原発の処理水の放出計画は「国際的な安全基準に合致している」と結論づける内容だ。

日本は放出計画を決めて以降、IAEAの調査団の視察など検証を受けてきた。
計画には当初から国内の漁業関係者や周辺国に反対や懸念の声があがっていた。
こうした中、国内外にしっかり理解を得て計画を実行したいと考えたからだ。
その検証の集大成と言える報告書で評価が得られたのだ。

政権幹部は次のように口にした。

「国際社会の第三者的な立場からの、科学的、客観的なお墨付きだ」(政権幹部)

グロッシは、報告書提出の翌5日には福島を訪問。地元関係者を前にこう強調した。
「処理水の最後の1滴が安全に放出し終わるまでIAEAは福島にとどまる」
放出の監視に国際機関として関与し続ける考えを示したのだ。
続いて懸念の声がある韓国も訪れ、直接、報告書の説明を行った。

時を同じくするかのように、現地では放出に必要な設備が原子力規制委員会による検査に合格。設備面での準備も整った。

また、7月13日にはEU=ヨーロッパ連合が、原発事故以降続けてきた日本産食品に対する輸入規制を撤廃すると発表した。

ある政府関係者は強調した。

「環境は整ってきた。あとは決断のタイミングだけだ」(政府関係者)


消えた早期開始案

当初、政府内には7月中に放出を始められるのではないかという見方もあった。

「科学的に安全なのだから粛々と計画を進めるべきだ」(政府内)

与党幹部が想定外の発言をしたのは、こうした矢先のことだった。


「IAEAなどによる客観的な説明を浸透させていくことが重要だ。海水浴シーズンなどは避けた方がいいのではないか。いたずらに不安を招かないようにすべきで、考慮していただきたい」
公明党代表・山口那津男が、訪問先の福島市でこう述べたのだ。

福島県内などでは「観光への風評被害を防ぎたい」として、海水浴シーズンの放出開始は避けてほしいという声がかねてから上がっていた。

そうした中での連立与党トップによる発言。政府関係者は困惑した表情でつぶやいた。

「処理水は安全だと言っているのに、さすがにどうかと思う発言だ…。でも与党幹部。無視するわけにはいかない」(政府関係者)


あとから振り返れば、海水浴が行われる8月中旬までの放出開始は、この発言で事実上、封印されたと感じる瞬間とも言えた。

中国の“外交戦”

もうひとつ、予想を超える事態に直面した。中国の猛反発だ。
中国は以前から放出計画に反対の立場を示していたが、「お墨付き」となるはずのIAEAの報告書に対し「すべての専門家の意見を十分に反映できていない」として遺憾の意を表明。「海洋放出への『通行証』にはならない」とけん制した。


また、中国で外交を統括する政治局委員の王毅は、インドネシアで開かれたASEAN=東南アジア諸国連合と日中韓3か国による外相会議の席上、「核汚染水」という表現まで持ち出して放出に反対の立場を鮮明にした。
“外交戦”が本格化した瞬間だった。
さらに中国は、日本産食品の規制強化を示唆。
放出が開始されてもいないのに中国各地の税関当局で日本からの水産物が検査のために留め置かれ輸出が滞る事態も起きた。日本から中国への水産物輸出額は年間およそ900億円と、国や地域の中で最も多い。
反発は関係者の想定を超えたものだった。

「正直、ここまでやってくるとは。中国による国際社会への働きかけはすさまじい」(政府内)

科学的根拠を

日本政府は応戦に出た。
中国や韓国を含めた海外の原発でも「トリチウム」を液体廃棄物として排出しているという現実を指摘。福島第一原発から放出される計画の処理水に含まれる「トリチウム」は、これらに比べても圧倒的に低い水準にあると強調した。
また、いわゆる“偽情報”には徹底抗戦する構えも見せた。

官房長官の松野博一は会見で、中国に強く反論し続けた。
「中国は事実に反する内容を発信しており、科学的見地に基づいた議論を行うよう強く求めてきている」
政府全体で、第三者の立場から評価を行ったIAEAの報告書は独立性・中立性が高いと訴え、巻き返しの動きを強めた。

国際会議でも“舌戦”


国際会議でも“舌戦”は展開された。
7月末、オーストリアで始まったNPT=核拡散防止条約の準備委員会。
開会初日、中国はまたも「核汚染水」という表現で放出反対の立場を示すとともに「国際条約に違反している」と独自の論理を強調した。
これに対し、日本はIAEA報告書の内容を説明。中国の主張に懸念を表明した。
「科学的根拠のない疑念を投げかけることは、非常に危険だ」

そして準備委員会の最終盤の8月11日。
議長が放出計画の評価にあたったIAEAの対応を各国が強く支持するとした総括文書の草案を示した。文書は中国などの反対で採択には至らなかったものの官房長官の松野は、こう強調した。

「公式文書として残らなかったことは残念だが、本質的なことは、日本やIAEAの科学的根拠に基づいた取り組みへの理解を広げることだ。国際社会の理解醸成が進んでいることを確認できた意義は大きい」

漁業者の反対根強く

国内では、依然として漁業関係者の反対が根強くあった。
一番の懸念は風評被害だ。
たとえIAEAの報告書などで科学的、客観的に安全性が証明されたとしても、消費者が不安に感じ、買うのをためらえば、結果として漁業者にとっては痛手となる。
そこをどう解消するか。

政府は担当閣僚の経済産業大臣・西村康稔をはじめ、政府担当者が関係自治体に出向き、IAEAの報告書の内容を説明。
安全性の確保はもちろんのこと、風評対策を徹底する方針を繰り返し伝えて計画に理解を求めた。

「漁業者らに対しては、放出への『了解』とまでは行かずとも『理解する』というところまでは詰めなければ」(政府関係者)

政府は2015年、福島県漁連に「関係者の理解なしには、いかなる処分も行わない」とする方針を示していた。それだけに最後まで丁寧に説明を尽くすことが求められたのだ。

でも先送りするわけには・・・

日に日に激しさを増す“外交戦”。根強い国内の懸念や反対の声。
そうしている間にも時間は過ぎ「夏ごろ」のリミットはじりじりと迫っていた。
どうするか。
政府内では、連日、水面下で“外交戦”や国内への説明の状況報告があがっては、慎重な議論が続けられた。

「中国の動きは度を越えている。国内もまだ機が熟したとは言えない状況で、もう少し判断は遅らせた方がいい」(政府内)

「中国はタイミングを遅らせても反対、批判はやめない。国内の世論も軟化しつつある。タンクの容量の限界が近づいていることを考えれば先送りできない」(政府内)

また、アメリカや韓国にも配慮が求められた。このうち韓国では政府がIAEAの報告書を尊重する立場を示してはいたが、国内には野党を中心に懸念や反発の声があった。

8月18日、岸田は、アメリカを訪問し、日米韓首脳会談に臨むことになっていた。
現地ではアメリカや韓国と個別の首脳会談も行うことになる。
バイデン大統領やユン大統領との会談前に放出すべきではないという声が上がっていた。


一方、政府関係者の中にはこうした声もあった。

「9月になれば一部で禁漁期間が解かれ、放出を開始しにくくなる」(政府関係者)

例年、地元では7月から8月いっぱいまで漁ができない期間がある。処理水は科学的に安全なもので、いつ放出をしても同じではあるが、風評被害を招きやすいタイミングにわざわざ重ねる必要はないという見方だ。

いったい、どうするか。最後は岸田に判断が委ねられる形となった。

決断

そして、日米韓首脳会談から帰国後の8月20日。
岸田は福島第一原発を訪れ、放出計画の準備状況について視察した。

さらに翌21日には全漁連=全国漁業協同組合連合会の坂本雅信会長らと面会。
「国として海洋放出を行う以上、安全に完遂すること、また安心してなりわいを継続できるよう必要な対策をとり続けることを、たとえ今後数十年の長期にわたろうとも、全責任を持って対応することを約束する」と伝え、理解を求めた。


これに対し、坂本会長は「国民の理解が得られない処理水の海洋放出に反対であるということはいささかも変わりはない」と述べつつも「科学的な安全性への理解は、私ども漁業者も深まってきた。岸田総理の『たとえ数十年にわたっても国が全責任を持って対応をしていく』という発言は非常に重い発言だと受け止めている」と述べた。

関係者には、政府が重ねてきた説明に全漁連側が一定の理解を示したという受け止めが広がった。

「たとえ数十年の長期にわたろうとも全責任を持つ」
これは、国内外に日本政府の覚悟を示すため、岸田や官邸スタッフが温めてきた言葉だった。

岸田が放出の具体的な時期を表明したのは、この翌日だった。

総理周辺は決定の背景について、こう明かした。

「中国の反発は続いているが、これ以上先延ばしにはできない。岸田総理は矢面に立ってでも、今やらないといけないことをやるという思いだった」(総理周辺)

岸田は周囲にこう語った。
「2年にわたり準備をしてきた。このタイミングを逃せば放出できなくなってしまう」

今後も重い課題

事故から12年たち始まる処理水の海洋放出。今後、数十年にわたって続けられる見通しだ。

NHKが8月11日から3日間、行った世論調査では、福島第一原発にたまる処理水の放出について、適切かどうか聞いたところ、◇「適切だ」が53%だったが、◇「適切ではない」が30%、◇「わからない、無回答」が17%で、国内の反対や懸念の声が消えたわけではない。

被災地の漁業者の1人は「震災から12年、死に物狂いで頑張ってきたが、処理水の放出によって、また風評被害が起きている。私たちには水産業を次の世代に引き継ぐ責任もある」と話した。

そして中国はさらに反発をエスカレートさせることが予想される。

岸田は放出の日程を決めた関係閣僚会議で「引き続き漁業者との意思疎通を継続的に行っていくことが重要だ」と述べた。安全性の確保や風評対策の進ちょく状況を確認する場を新たに設け、漁業者に寄り添った対応を徹底していくとしている。

岸田の言葉どおり、最後まで安全を守り、実効性のある風評対策を講じていけるのか。そして国際社会の世論を制していけるのか。放出開始後も、丁寧な説明と正確で効果的な情報発信を続けていくことが重い課題として突きつけられている。

(文中敬称略)

政治部記者
森 裕紀
2015年入局。青森局、松山局を経て2022年、政治部に。官邸クラブで東日本大震災からの復興政策などを担当。この8月から野党クラブに。
政治部記者
清水 大志
2011年入局。初任地は徳島局。自民党・岸田派の担当などを経て官邸クラブに。
政治部記者
古垣 弘人
2010年入局。初任地は京都局。自民党・安倍派の担当などを経て官邸クラブに。